基盤研究(A) データサイエンスによる紙の道の解明

【科研費について】これまで実施してきた、紙の研究が基盤研究(A)に採択されました。

基盤研究(A) 令和4年度〜8年度

データサイエンスによる紙の道の解明 ―量的・質的調査とAI多面的解析に基づいて―

中区分 思想、芸術およびその関連分野

研究代表者及び研究分担者

研究代表者  柴崎 幸次 (愛知県立芸術大学 美術学部)

研究分担者  神谷 直希 (愛知県立大学 情報科学部)、阪野 智啓、本田 光子 (愛知県立芸術大学 美術学部)、岩田 明子(保存修復研究所 研究員)、健山 智子(藤田医科大学、昨年まで滋賀大学)

 

(概要)

世界には様々な紙文化があるが、古くから紙は文明が形成されるための重要なメディアであり、その時代・地域において最高の技術を駆使してつくられ、人類の根源的な文化形成において発展と多様化を繰り返してきた。その紙に残された繊維、成分などには多様な紙文化の痕跡を見つけることができる。本研究は、製紙技術が画一化される

 18世紀以前の“紙の道”に焦点をあて、既に製紙技術が断絶し製法や文化の接続性が不明な部分も多い世界の紙の伝播の実態を解明し、復元の道を開くための国際共同研究である。アジア、欧米の大学、博物館、図書館等とデータサイエンス分野との共同により、現代の携帯顕微鏡と人工知能(以下AI)によるディープラーニング、さらに高度な観察と撮影技術の活用による多面的な画像解析システムの構築により繊維と微量成分を特定し、芸術や文化史の観点から新たな歴史的事実を解明するための世界初の取り組みとして計画する。

 

(本文)

 (1)本研究の学術的背景、研究課題の核心をなす学術的「問い」

本研究は、現在も不明な点が多い“紙の道”(紙の伝播)の解明に焦点をあて、歴史の時系列の中でどのような紙の文化であったかを、データサイエンス領域と共同し、紙の文化に潜んだ真実を明らかにしその多様性を解明することが目的である。携帯顕微鏡カメラによる多くのサンプル撮影とディープラーニングによる画像解析を活用し、さらに様々な観察や計測、画像シミュレーションを用いた多面的な解析結果を融合させ、非破壊で簡易に撮影できる画像を用いた紙質分析の飛躍的な向上を目指す。

この研究アイデアは、2017年から2021年度実施してきた研究拠点形成事業「現代に生きる“手漉き紙と芸術表現”の研究」と国際共同研究加速基金「世界の紙の伝播とサマルカンド紙の解明」において実践的研究に取り組んでいる紙の組成解明にAIを用いる方法から、さらに多面的解析システムを結合させ、紙の実体解明アプローチを大幅にアップデートした研究である。紙の考古学と再生などの実践的研究の立ち位置から、ユーラシア大陸全体を研究範囲とし、世界中で不明な点が多い紙の組成や伝播の謎を、時代を越えて残る紙の資産を活用し解明する。

学術的背景として、“紙と芸術表現”に関するトピックを図1にまとめたが、世界の紙文化を紐解くには製紙技術が画一化される18世紀以前が重要で、(ⅰ)東方を見ると中国から日本まで植物靱皮による多様な原料の探求、(ⅱ)用途に合わせた紙の加工方法及び、書画表現の方法など成分の解明、(ⅲ)また西方では、8世紀後半、中国から中央アジアに伝播した紙の探求、(ⅳ) イスラム世界において羊皮紙などの代替として、コーランなど精細な描画・金彩表現を伴うミニアチュールの表現と支持体、(ⅴ)サマルカンド紙以降、西洋紙の原点から近代製紙への接続性が不明確な点などが重要事項としてあげられる。

“紙と芸術表現”など芸術実践の立場では、その時代に求められる表現があり、その為に様々な紙や加工方法が探求されてきたことから、世界各地の紙には文化の粋を集めた多様性が存在するが、文化財の保存修復事業や、厳密な復元模写など、紙と芸術表現の探求に関わる調査においても、文化財は非破壊・非接触のルールの中で、実際に紙の種類が特定できずに研究が進められている現状がある。

そもそもユーラシア大陸における紙の伝播に関する論説は不明な点が多い。日本の和紙などの正倉院文書のように1300年前の歴史が遡れるケースは稀であり、世界の歴史において民族の栄枯盛衰のたびに紙文化は抹消され、また更新されてきた。

これまでの研究経緯から、国内外の研究事情において以下の問題意識を持っている。

(ⅰ)製紙が断絶した後、研究が滞り、紙が持つ情報を評価できずに文化史研究がされていること。

(ⅱ)世界的に紙文化には解明されていない事実も多いが、過去の研究として定説を深めることはなく多量のサンプルが未検証であること。

(ⅲ)紙は表現と共に発展してきた経緯があり、技術史や文化性の探求を科学に求め、芸術実践の研究として厳密な復元に取り組むことが重要であること。

よって、本研究は、芸術とデータサイエンスを融合し最新技術を活用した実体解明のアプローチを世界全体に応用し、紙の伝播の解明と紙質分析における問題の解決を実践的に導き出すことである。

(2)本研究の目的および学術的独自性と創造性

本研究の立ち位置は紙の研究を、伝説から科学へ導くものであり、断片的であった紙の伝播と歴史研究をデータサイエンス領域と共同し、現代の携帯できる顕微鏡相当の機器とAIを活用した画像解析と多面的な解析の結合により、“紙の道”の文化的関連性を結び付けることを重要視している。まずは、さまざまな世界の紙を携帯型顕微鏡カメラによる簡易な撮影のみで、その判別や他の紙繊維のデータとの類似性、同一性を高確率で判別できる方法論を追求する。

[1次調査]で年代の解る紙などを目視観察と携帯型顕微鏡カメラによる撮影(以下簡易マクロ撮影)を行い、できるだけ多くの繊維の画像と紙の情報を収集し学習用データベースを作成する(量的調査)。[2次調査]でそれらの画像をディープラーニングによりデータに含まれる紙の潜在的な特徴を分析し様々な種別に分類・可視化する。[3次調査]として、特徴のある繊維の紙に対して、元々破損した部分や自然に崩落した紙の繊維などを採集し、科学的な分析(JIS P8120、紙、板紙およびパルプ繊維組成試験方法、C染色液による光学顕微鏡調査)により繊維特性や混入物を分析し紙の原料・紙質を特定する(質的調査)。これらの情報を、ディープラーニングを使い特徴のある紙の分析データとのヒモ付けを繰り返していく。

また[1次調査]は、量的調査として画像収集力を向上させる為にデータアップロードシステムを構築する。これにより、世界各地から多くのデータを収集する方法として、研究協定校や協力者が、専門家でなければ扱えない古い写本や、持ち出し禁止の個人コレクションなども簡易マクロ画像を自ら撮影しアップロードできる仕組みを提供する。

現在までのディープラーニングへの画像入力は、前処理として解像度を調整し、ピントがあまい部分をトリミング後、さらにピントが明解な一部画像(パッチ)の選択を行い、ディープラーニングはEfficientNetのアーキテクチャを使用している。この解析プロセスにより、初期段階のものであるが綿と麻の判別では90%以上の識別精度を達成している。これは人の目視や触覚による判別より遥かに高いが、画像素材数の増加や処理画像の解像度を上げ学習データを充実させ、より深層なアーキテクチャを用いれば、さらに高い判別結果を得られることが期待できる。

これまでの検証では生紙を判別しているが、塗布剤や顔料があるなど複雑な紙質判別の方法として、別の高精細機器による撮影結果と簡易マクロ画像を紐付けする画像生成シミュレーションを応用した多面的解析システムを構築する。同じ原料の紙でも様態は様々で紙質判別は①繊維種別、②繊維圧縮度合、③他繊維の混入、④紙の平滑性検証、⑤塗布剤成分検証、⑥他物質混入検証などが必要である。これらは超高精細機器での高解像度、深度合成、3D形状の撮影や放射線分析を用いれば判別精度は大きく向上するが、超高精細マイクロスコープ(①〜⑥に有効)やハイパースペクトルカメラ(①③⑤、スペクトルによる分類)、電子顕微鏡撮影(④⑥)、蛍光X線(⑤⑥)など、別の機器での画像シミュレーションによる撮影、検証結果を反映させることで、学習データ解析をさらに深層化させることが実現し、判別精度は飛躍的に向上し判別できる紙の種類も多様になる。研究では従来のJIS P8120の紙質試験も活用するが、微量とはいえ破壊調査であり不要な塵などの紙片がなければ調査できないことからも、より有効な判別システムになると確信している。

 

(3)本研究の着想に至った経緯や、関連する国内外の研究動向と本研究の位置づけ

これまでのサマルカンド紙研究において、ウズベキスタンでのJICAとUNESCOが紙の復興を支援したコニギルメロス工房では、桑の靱皮から制作されたと結論付けているが、これは伝承を元にタラス河畔の戦いなどで靱皮の紙が伝わったと読み解いたものである。しかし歴史の中で初めて顕微鏡観察を本格的に導入し、最初にサマルカンド紙を定義したカラバチェックによる調査では古麻布のリネンと結論付けるなど異なる説が存在する。また、8から10世紀の古い書籍の紙質調査を実施してきたが、布由来(麻、コットン)とした紙の痕跡は多数発見されているが、桑などの靭皮の紙は見つかっていない。それに対し考慮すべき歴史的事実は、この地域は西トルキスタンのホータン(和田:Xoten)に近く、9世紀と特定されている遺跡から発掘された紙は桑科の靱皮繊維の紙が存在する事実もありメロス工房の漉く、桑である説も十分考えられるがその実態は明解には解き明かされていない。

紙質調査の現状をみると日本の国宝級の文化財修復時の再調査で、楮紙であるという定説から三椏混合紙であるなど逸脱する結果が出ることや、ウズベキスタンでの調査では、古代と特定される文書の紙から近代の針葉樹パルプが検出された例もある。そもそも紙の組成調査は決して容易なものではなく、非破壊、非接触のルールの中で、試料がごく微量であくまで参考であることが補足されていることや、国宝・重文などの修理や再調査が頻繁に行われることはない。このように紙に注目し歴史をみれば不明なことや辻褄が合わない点が多い。また、文化財の保存修復時は紙の厳密な調査が要求されるが、世界の博物館や図書館に残る文書や写本絵画の研究事例を参照しても、書かれた内容が中心で紙そのものには注目してこなかった研究態度が一因であるとも考える。紙の調査は不明確な歴史の中、伝説以上に紙そのものを科学的にとらえる研究例や学術情報は未だ極めて少なく、解明への糸口は見つかっていないが、この研究を通じて、画像のみで紙料の詳細分析ができる可能性があることは大変有効な手段となる。

本研究は、簡易マクロ撮影による量的調査を通じて、多くの紙をまずは参照し、AI活用により、定説が疑わしきものをまずは可視化する方法論である。現存する世界に無数にある未調査の紙を調査することは時間とコストの問題があり、さらに重要な文化財になれば、繊維の抜き取りは疎か接触さえも不可能である。しかし多量の紙の画像の中、それらと類似した紙が存在する可能性は高く、そこから年代や紙の性質を他の事例調査と照合し推測することは可能である。これまで受け継がれた現存する古代の紙などの文化財には、国家権力や宗教に関連する写本が多く、その制作年代を特定することができる事例が比較的多い。また過去に滅びた文化や抹消された歴史は解明のしようがなかったが、紙と芸術表現に託された優れた文化財は、動乱の場を逃れ博物館や個人により保存されている可能性も高い。この方法論を世界中で活用すれば、明らかにされていなかった事実や食い違った歴史解釈において、地域と時間軸を越え、過去に埋没した歴史を紐解くことができる、世界初の科学的アプローチとなりうる。

本研究アイデアは、これまでの研究活動2−1【ユネスコ国際会議での発表】26.August.2019,“The Research on Propagation of paper in the world and Samarkand paper”において発表したが、世界レベルでの紙の類似性、同一性を検証する紙質分析は、これまで無かった取り組みとして評価され、更なる発展を期待されている。