[ノート]寿岳文章 『和紙風土記』/「和紙と時代」からの森下紙の記述

寿岳文章 『和紙風土記』/「和紙と時代」寿岳文章からの森下紙の記述

 

さまざまな中世の紙のこと述べる章で、美濃紙を軸に吉野紙について述べる続きにて・・・。

○・・・貝原益軒の和州巡覧記に、「此邊紙を多く漉所也国栖紙と云い厚き紙也」とある如く、厚手の紙の産でも有名であり、聖経印刷用紙として東本願寺へ納入する森下も世に聞こえている。・・・

○枝村商人によって京洛へ齎(もたら)された美濃紙のうち、一般に美濃紙、濃州紙、濃紙、濃牋などと和漢両様に呼ばれた代表的なものは、書写の料紙となったのは言うまでもないが、室町時代に流行した草紙の料紙にも用いられたようである。その厚手のが森下で現山縣郡の富波村で漉かれる上質の青波森下などは、おそらくその伝統をかなり純粋に守ったものであろう。今日の用途は主に傘紙である。この森下と言う名称は、既に早く康正年間(1455年から1457年まで)の記録に現れるが、美濃の原産であることは、殆どそれが美濃方面から齎されたのでもわかるし、また美濃の森下以前に森下なる紙名を他に見出し得ないことからも推測し得られる。關彪(関彪せきたけし)氏も言われる通り、闡明(せんめい)の困難な問題である。原料による称呼(しょうこ)ではもちろんなく、やはらとか薄様とか、紙の質から来た名でもなく、漆漉(うるしこし)・次第紙のように用途からの名でもなく、仙貨の如く人名に由来するのでもなさそうだし、結局産地名による称呼と比定せざるを得ない。・・・・・・(中略)・・・・・

森下が、「いかにもあつき美濃紙」(親元日記(ちかもとにっき)文明十三年十月六日)であったとすれば、今日の純生漉の森下から推察し得られるように、楮の香の高い、色ほのかに黒いたのもしい紙であったのだろう。それがあまりにも地方的なので、米糊などを混じてやや白くしたのが薄白(うすじろ)と称せらるる紙ではなかったか。永正天文頃の事を記したと言はれる「諸藝才代物附」には、薄白の上等が森下であったことを思わせる記載がある。