[ノート]達吉創作染織圖案集のはじめの言葉

達吉創作染織圖案集の、はじめの言葉、三河森下紙との関係

  

藤井達吉の「達吉創作染織圖案集」の表紙の裏に書かれている最初の言葉。平成27年3月に和紙素材の研究展で「達吉創作染織圖案集」の展示とともに、デキストに書きおこした。この文章から圖案集がどのような思いで生まれたのか読み取ることができるので、学生などへの参考の為に作成。漢字使いなど、できるだけそのまま書いている。ふりがなは適宜入れた。

三河森下紙との関連は、最後の方の記述「幀装や、箱などに、石版といふ相談もあったし、西洋紙、といふ話も有つたが、臺紙(だいし)も郷里の山奥で、特別に漉かせてもらった。」この郷里の山奥が現在の小原を意味し、その後移り住むことになった。

以下、達吉創作染織圖案集の、はじめの言葉。

 

圖案集の生まれるに際して

我流で、制作を初めてから、もう、大分永い、それだけ思ひ出が深い、それでいゐて、一つとして、思う様に出來た例がない。作者として、こんな淋しい事はない。一生を、推し進めても、同じ思ひかも知れない。種々思い悩んだ結果、日本の郷土に残された、いはば日本の土の聲を聞くべくはてしない旅に、早春出かけたのであった。その出立しようとする前夜、文雅堂から、圖案集を出さないかと言う相談があった。圖案?實(じつ)は、私にはその定義が、不可解でゐるのである。従來、世間的にいふ、圖案といふものを、描くといふことが、實際苦痛であった。楽しんで描いたことがない、やむを得ない依頼か、食う為か、それにしても、私には小さな一枚も、他人の、想像するより、苦しみの難作であった。そんなことから、不義理にも断り得る丈け断って來た。

この旅に先立ちて、圖案集を出せといはれて、ふと、一生の思い出に、一冊は出して置いても、と思って見た、幸ひに、いろいろ我儘な条件を、入れられたので、出す氣になってしまった。

二タ月、三ツ月、何月過ぎても、思うようには描けない。今度こそは、世間でいふ、圖案、といはれる様なものを、と思って何枚描いても、自分の心に合はない。やはり、断った方が良いかと、何度思つたか知れなかった。

勝手氣ままなものでいい、といはれたのを思ひ出して、全然方法を替えて、描いたのが、こんなものに、なったのである。私の性格が、どうしても時代の流行に添ふことの出來ないのを泌々(しみじみ)知ったのである。自分が物心がついてから、圖案の流行が、幾度變化(へんか)したか、流れ去った、幾つかの、それを思うと、一掬(いっきく)の涙を、手向けるものである。今、私は日本人の、眞の持ってゐる、工藝を探しての旅にある。一時的な外來の、流行のジャズ的な、それは、私がやらなくても、やる人は澤山にある。それの、必要があったら、その人たちに頼めばよいことである。から、私は私丈けのことをする。日本人であることを、であったことを有難く思ふ。いや、この土に生を得たことを感謝する。一も二もなく、雷同的(らいどうてき)に、異人種に、拜座(はいざ)しなくても、生きられる、自分を感謝している。明日餓死することを思いつつ。

この七八年來、動物にすつかり、興味がなくなってゐる。1枚の繪を描いても、どうしても入れる氣がない。そんなことで、今度も、蟲一つ描かなかった、全部が、草と、いつても、よい位になった、何とか動物をと思って幾枚かを、描いたが、破ってしまった。景色と草木丈けになつた、孤獨にゐて、草に對(たい)してゐる時が一番に嬉しいからであろう、山に登って静かに、自然に對してゐる時丈け、自分という者の存在を知る。高原植物、高山植物に親しむこと、二十餘年になる、これ等の、寫生(しゃせい)によって描ふかと思ったが、あまり、特種なものになるので見合せた。私は今、草に對している時と、人間に對している時と、何の相違がない氣がする。彼れ等の生活、時々刻々のあの変化、人に對してゐるより嬉しい。草と話してゐるのが、慶びである。吾れも自然の一片であれば一本の草も、自然の一片であるが故に。「久にして吾家に歸り思うことなし庭の小草をおろかみにけり」且つて、幾年か前に、旅から歸つて、庭の愛する草に對した時の、氣持ちを、ふと思った、それは今も少しの変わりはない。

自然に對した時、限りなく慶びを感ずる。一草一木、水雲のゆきかひに、靈を感ずる、それを何に仕様とするのではない。夢からさめた様に、その一つ一つを見つめた時、染物がある、織物がある、花瓶があり、皿がある、箱があり、家が現はれる。自然から、教へられた、暗示される物には何等限定がない。まして手法をや、質材をや、自然の一片としての人間が、互に融合とでもいふのであらう。一切を越えたもの、そのものであろう。それ丈けである、だが残念なことには、それを表現する力の、不足のことである。日常の練習と、修養に待つより外にないと思ふが、それがあまりに足りない。

大分以前に教養と、自然と、作者との、三意一體(いったい)といふ様なことに、直面したことが有った。その時以來、私の圖案?制作?といふことに對する氣持ちが變ってしまった。それからの作品が、いはゆる時流とはなれてしまった。それを今も信じてゐる。さもあるべきと思っている。

染色。世間の大家が、筆意が出てはいけないと、ああした風とか、一種の限定をして見てゐる。自分の趣味と主張丈けを、是としてゐられることを耳にするのは残念なことである。幾種かに、限定の必要は、ないと思ふ、ああした方法もある。こうした方法もある、といふ見方をしたら如何かと思ふ。

筆意が、有つては、繪と同じだとか、繪でない、線でなくては、染色はいけないとか、繪でない線があるが如く、思はれ、主張されるのも、ちとせまい見方、といはなければならない。

制作は自由である。如何なる場合も、いかなる制作にも、限定があってはならない。只、ああした、作風もあると見るのが、至當(しとう)と思ってゐる。要はその作品の如何にある。その人間に、歸着する、そうなれば技術方法は問題ではない。

作者と對物との物語りである。それが全部ではあるまいか、私の、この作の拙い(つたない)のは、修養の、足りないのに決着する。これは、どんな、悪評されても、一言もないのである。多くの場合、評する人の方に、より以上の、力が有ってするのであるから。

これを全部染物として、自分の知る限りの方法で仕上ることも考えて、少し、手を付けて見たが、それは版に限りがあるから、大體(だいたい)に、その氣持ちで、描いて見た。線はかたいのは前に言った様に氣持ちに、合わないので、筆の自由な線にした。よい制作が(私の思ふ)多くは、一つの圖案が、ある物の、象徴になって居り、作者の人格になってゐる。そんなことを思ふと、一筆も下せない。でも出來るだけ、冩生した時の、その草の生活と、自分とを出したいと思ったが、結局、古臭い、流行に後れた、非世間な物になってしまったかもしれない。だが私は今これより仕方がない。せめて今少し氣持ちの良いものをと願ってゐるが、それは一生かかっても、一枚も得られないであろう。幾枚かを、手元に置けば、次ぎ次ぎに破り捨てるから出來た丈けを、刻りに送ってしまった、全部揃えたら、又描き替へ度く(たく)なるのであろう。

織物として、もっと、文様化のものが描くつもりのが、いつの間にやら、豫定(よてい)の、數になった。縞も飛白も、少しも描かなかった。刺繍もことさらに、それとしないけれ共、その心持ちは入れたつもりでゐる。この旅の上で思ふにませぬ、心持ちで、描きつづけて見た、文華堂氏の好意で、とにかく一冊が生まれることが出來た。

嬉しいような淋しさを感ずる。

山岸氏の彫刻と、西村氏の摺がさぞや、やりにくかったことと思ふ。心から感謝を表し度い。

昭和六年夏月中部日本の旅長母寺客舎にて

藤井達吉

後 記

足かけ三年目に摺上って見ると、最初思った様に、大部分が描き替え度い、だが、又一方の見方からすると、この三年間に、これ位い、自分が變化しているのかと驚いてゐる。藝術的な切なさのあまりに、出た旅の一つの記念として、泌々と手にとって見た。こうした心持ちで有ったのかと。

織物を、ああすれば、染物をこうすれば、考へ出すと限りがない。前にも書いた様に、一生繰り返しても、盡き(つき)はしない。一枚も仕上がりはしないであらう。やはりあきらめるより外にない。幀装や、箱などに、石版といふ相談もあったし、西洋紙、といふ話も有つたが、臺紙(だいし)も郷里の山奥で、特別に漉かせてもらった。そして繪具も、何もかも、一切が、日本の物で仕上ったので有った。無理なこの我儘を通させて下さつたことを嬉しく思った。

圖案集?その、文様よりも、版と摺と紙の持つ、日本特有な味は、實に盡(つ)きない物がある。やはりこれが最初の終りであろう。又一生の、思ひ出の一つであらう。もう、再び、誰れも、出してもくれまいし、自分も出さないであらう。文雅堂氏を初め、木版の山岸氏、摺の西村氏に厚く御禮を申上る次第である。

昭和八年三月大井古巣に於て

   

 

(藤井達吉創作染織圖案集より・平成27年3月・柴崎幸次が書きおこし)