[ノート]桑原隲蔵の「紙の歴史」に書かれていること
[ノート]桑原隲蔵の、紙の歴史に書かれていること
紙の歴史に関して重要な、桑原隲蔵の「紙の歴史ー5章」を旧字体などを修正し、読みやすくまとめてみた。原文そのままではなく( )などでくくり、柴崎の解釈も加えている。[例えば、カヤツリ紙(パピルス)みたいに]
桑原隲蔵の「紙の歴史」には、紙の歴史を知る上で、重要な事柄が書かれている。現在の「紙の道」の解釈を理解する上で重要な文献であり、サマルカンド紙に研究に関しても重要な資料であるので掲載する。なお、同書籍は、青空文庫として自由に読むことでき、本サイトでは、規定にもとづき活用している。
また、下記の画像は、柴崎が作成した紙の伝播の図で、紙の博物館の資料や、日本製紙連合会の資料、その他いろいろな資料を参照しながら、学生への教材として製作している画像である。紙の伝播の参考になればと思い掲載する。
紙の歴史[かみのれきし]
著者:桑原隲蔵(くわばらじつぞう) 底本:桑原隲藏全集 第二卷 底本出版社名:岩波書店 底本の版:1968年3月13日
「紙の歴史、5章(抜粋)」
オーストリーのウイーンに Rainer 太公といふ貴族がいて、古紙の蒐集で世間に聞えている。今より30年前たしか西暦1877~78年の交に、エジプトの Faiym 地方の2,3の地方で、多くの古文書が発掘された。この古文書の大部分は、1884年以来 Rainer 太公の所有に帰した。その古文書の総数は十万以上に達し、その年代古きは紀元前14世紀より、新しきは紀元後14世紀まで、約2700年間に跨つている。中にはカヤツリ紙(パピルス)もあれば革紙(パーチメント)もあるが、併し襤褸(ぼろ)紙(Rag-Paper)も中々多い。Rainer 太公はただ古紙を蒐集するのみでは満足せず、蒐集した古紙を科学的に研究することを企てた。この研究の為に多くの学者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き関係をもつた学者が二人いる。一人はウイーン大学の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を担当して居る。一人は同じくウイーン大学の Wiesner 教授で専ら顕微鏡調査と化学試験とで、古代の紙の成分及びその製法などを研究している。此等の人々の研究調査の結果は数回の報告書となつて世に公にされた(29)。この報告書が公にされてから世界の紙の歴史は始めて明瞭となつたのである。吾が輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30)に引用されてあるから、Hoernle 氏のを更に節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたそう。
Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、薩末(以下サマルカンド)を始めマホメット教国で製造された紙が沢山ある。年代が古くて確実な方では、西暦874年、900年、909年の文書がある。年代は明記されてないけれども他の理由によつて、西暦791年若くば792年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末(サマルカンド)で支那人の捕虜が紙を製造し始めてから、丁度40年にあたっている。Wiesner 教授はこのマホメット教国製造の古紙において顕微鏡調査を試みた結果、これらの古紙は何れも純然たるリンネンの敝布(ふるぎれ)を原料として、決して樹皮などの生繊維を混和しておらぬことが判明した。
しかし、一方ではマホメット教国の史家等は、最初サマルカンドで紙を製造した時に、草木即ち生の植物纖維を原料としたと伝えている。なお又、ペルシア語及びアラビア語で紙を Kaghaz 又は Kaghad といふ。これは印度の Kaghaz といふ言葉と同じく、何れも支那の穀紙(Kuchih 古音 Kok-dz)を訛つたものである(31)。古伝説が草木を製紙の原料としたと伝えており、またマホメット教国へ最初輸入された紙が、穀紙を訛つた Kaghaz 又は Kaghad といふ名称で知られている事実を併せ考えると、当初サマルカンドで支那人の捕虜によつて製造された紙は、主として樹皮を原料に用ひたであらうといふことは、殆ど疑ふ余地がないやうに思はれる。
支那の新疆の探検が行われると共に、この地方から古文書が発掘された。英国の Stein 氏が天山南路で発掘した古文書は随分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合7種ほどある。即ち代宗の大暦3年(西暦768)、徳宗の大暦16年(實は建中2年、西暦781)、大暦17年(實は建中3年、西暦782)、建中3年(西暦782)、建中7年(實は貞元2年、西暦786)、建中8年(實は貞元3年、西暦787)、貞元6年(西暦790)の古文書である(32)。此等の古文書は何れも薩末で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所藏のマホメット教国産のもっとも古き紙の時代にかけて、約40年間にあたっている。此等の古文書はその紙質調査のため、大抵 Wiesner 教授の手許に送られ、例の顕微鏡調査の結果、此等の古文書の紙には、幾分の敝布(やぶれた布)も混じているが、その大部分は桑、桂(この場合は桂は?)及びラミイ(苧麻・ちょま)即ち China-grass 等の皮を原料としていることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されて居つた紙の主要成分が、桑其他の草木の皮であるとすると、サマルカンドで支那人の手によつて始めて製造されたマホメット教国の紙もまた同樣であつたであらうと想像すべき余地が甚だ多い。マホメット教国の史家がサマルカンドの産紙は最初草木を原料としたと伝えているのは、この点から推しても、だいたい上信憑すべきように思われる。
以上叙述した要点を約すると、西暦751年サマルカンドで製紙工場の創設された当時は、製紙の原料として草木を使用したといふ伝説は疑ふべき余地がないが、同時に西暦791、2年の交のサマルカンド産の紙を調査すると、純然たる襤褸(ぼろ)紙で樹皮などの生纖維は毫も混和されておらぬ事実もまた信用せねばならぬといふに帰着する。従って製紙の原料にかく顕著なる相違のある原因は、西暦751年から791,2年にかけて約40年間に、マホメット教国内に起つたものと認定せなければならぬ。
Wiesner 教授はマホメット教国の産紙と天山南路で發掘された支那紙とに對して綿密なる化学試驗、顕微鏡調査を行ひ、この二国の紙を比較して、大要次の如き断案を下している。
唐時代の支那紙は幾分の敝布を混じているけれども、その主要なる原料は桑其他の雙子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教国に伝えたが、サマルカンド附近には第一の原料ともいふべき桑樹が欠乏しているから、必要上次第に敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを経験すると、最後には敝布(マホメット教国に豊富なるリンネン襤褸)のみで紙を製造することとなつた。紙は支那から伝わったが、その原料を変えて今日一般に使用さるる純粋の襤褸紙(Pure Rag-Paper:コットン紙など)を産出するに至つたのは、マホメット教徒の功といはねばならぬ。
支那紙の原料の樹皮は、最初は石臼にて人力でつき挽いた砕いたものであるが、これでは纖維組織を損すること多く、從つて出來上つた紙質も粗鬆(そしよう)で、字を書くとちる恐れがある。やや後世(西暦7,8世紀頃)となると、化学作用で樹皮の纖維組織をあまり損ぜぬようになつた。従って紙質も一段改良された。併し敝布は依然石臼でつき挽いたままである。ところがマホメット教国の産紙を調査するとその原料たる敝布から化学作用で、手際よく纖維を抽出した痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料取扱について、支那人よりも一層の改良進歩を遂げたといはねばならぬ。
原料の変更、原料取扱の改良この二点を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は(原料に糊を混加し、又は紙面に澱粉末を塗布して紙質を良好にする方法まで)だいたい支那人のそれと同一である。
以上の断案が今日の学界に証典として公認されている。併し多少の疑惑を挾むべき餘地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の数は決して多くない。年代の確実なるものは僅か67種に過ぎぬ筈である。然も此等は多く唐代のもので、何れも和闐(コータン)の東北約百マイル許の Wandn-Uiliq 地方から発掘されたものである。一地方から発掘された少数の支那紙の調査のみでは、決して支那紙全般の原料や製法を確実に推断する訳にはいかぬ。
第二に東漢時代からすでに麻紙、穀紙、網紙の区別があつた。『東觀漢記』(東観漢記)の一本に、倫(蔡倫)典二尚方一作レ紙。用二故麻一名二麻紙一。木皮名二穀紙一。魚網名二網紙一。と記してある。故麻といふと麻襤褸(ぼろ)のことであらう。すると網紙は勿論、麻紙もたとひ純粋の襤褸(ぼろ)紙でなくても、その主要成分は熟纖維(Textile Fibres)であつたと想像される。少くとも天山南路で発掘された支那紙(Wiesner 教授によれば樹皮を主要原料とする)と同一の成分ではなかつたであらうと思はれる。併しこの問題を解決するには、成るべく多くの古代の支那紙を蒐集して、これを Wiesner 教授と同樣の方法で調査する外はない。事実は最後の解決である。
(29)”Mitteilungen aus der Sammlung des Papyrus Erzherzog Rainer”
(30)Hoernle; “Who was the Inventor of Rag-paper?” (J.R.A.S. 1903).
(31)Hirth; “Die Erfindung des Papiersin China” S. 12 (T’oung Pao, 1890).
(32)Stein; “Ancient Khotan” Vol. I, pp. 523-533; Vol. II, p. cxv, cxvi.
[要点]
→Rainer オーストリアの貴族、古紙の蒐集で世間に聞えて居る。この分析を研究者に依頼した。
→一人はウイーン大學の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究して居る。
→もう一人は同じく、ウイーン大學の Wiesner 教授で專ら顕微鏡調査と化学試験とで、古代の紙の成分及びその製法などを研究して居る。
→その大要は Hoernle 氏の論文(30)に引用されている。